生きているということ

近所の仲良しのおばあちゃんがかわいがっていたねこが車に轢かれたというのを聞いた。
おばあちゃんは泣きながら 
 かわいそうになぁ、ひでぇもんだったんだよぉ。火葬してやるんだぃ。
と話していた。


おばあちゃんはわたしがちいさな時から常にねこを何匹か飼っていて、その中でもいちばんなつっこいねこだったと思う。ある時はわたしが出かけようとして玄関のドアを開けるとそのわずかな隙間から家に上がり込んでしまってなかなか自分の家に帰ろうとしなかったり、またある時も出かけようとして駐車場に停めてある自分の車まで行くとそのねこがボンネットの上にねそべってひなたぼっこをしていて、遊んでくれとでも言わんばかりの瞳で私をみつめていた。


おとといもボンネットの上に居座っていたのだけど、びっくりさせたらかわいそうだし無理矢理どかすのもかわいそうだったのでなかなかエンジンをかけられなくて困っていたのだけど困っていても仕方ないのでそれならこの状況を楽しんじゃえって事で友人との約束のじかんが迫っているにもかかわらずねこと遊んでいたりした。


満足したのかねこはにゃあと鳴いて家と家との間にあるブロック塀を身軽に飛び越えてわたしには見えない向こう側へひょいと消えていった。
そのにゃあという鳴き声がまるで 
 行ってらっしゃい。気をつけてね。事故しないようにね。
って言われているような気になったので、もう姿のみえないそのねこに向かって
 ありがと。
と言った。


その時は雨の降ったすぐ後だったので抜けたねこの毛がくるまにはりついていた。
ボンネットにはネコの肉球のかたちをした泥の足跡が残っていた。
わたしの着ていた衣服にもねこの毛がたくさんだった。


着ていた衣服はコロコロをていねいにかけてから洗濯してしまったので毛はついていない。
でも、車にはまだ抜けた毛も残っているし足跡もついている。
けれどねこはもういない。
ねこと人間というよりか
 ねこに似た寂しがり屋の人と遊んでと言われたら遊んであげる人
という感じだった。



ねこに似た寂しがり屋の人はもういない。
もう家にあがりこんでくることもない。
一緒に遊ぶこともない。


生きているということは儚くて切ないものですね。