連載小説 「冬生」 第一回

いつものケンカのつもりだった。決定的な言葉を使ったつもりはなかった。
1日あけて、仕事中に電話をかけて、いつものごめんねを言って仲直りするはずだった。





「そんなんさ、大事な日だってのは俺も分かってんだって。それでも仕事なんだよ。
 首になるわけにもいかんだろうが。それか、なに?お前、そんなんでこの先…」
「や、いい」
言葉尻を遮るように、拒否。これでも、いつも通り。


思えばもう3年以上もこんなことをやっている。正直、もうだめだと思うことなんか数え切れないほどあった。それでも私たちが終わらなかったのは、その呆れるほどの曖昧さ、にあった様な気がする。喧嘩して、これでもかって泣き喚き疲れた私に、うなだれたあの人がちいさな声で言う。
「ごめんな。思ってること言ってくれて、ありがとうな。」
その一言だけですべてが処理された。その言葉に赦された気がして満足した私は(喚き疲れただけなのかもしれないが)、また温度の残るほっぺたを拭い、彼の好きなCDを部屋の中に流す。彼のおだやかな顔を見ていたら、さっきまでの喧騒をすべて忘れてしまうのだ。こうして問題は解決せずに、部屋の中にしんしんと積もっていく。
二人だけが忘れ去ったままで。


3年のあいだに何層にも積もったその雪のようなものは私たちが忘れたつもりでいただけで(というか、目を瞑って気付かないふりをしていたのだ)、4度の春の訪れがあったにもかかわらず、私たちの住むこの部屋に、溶けずに残っている。春の雪解けを待つ雪ではなく、永遠に溶けずにそこに存在し続けることが可能な雪だ。



冬に付き合いはじめた私たちに4度目の春が来て、2人の部屋の雪は溶けず、蝉の鳴く季節にさしかかった頃、私は彼がでかけた1人の部屋で自分の気持ちを言葉にしてみた。
「彼の気持ちがわからなくなった。」
こういう言葉を口に出す時、ほんとうは自分が彼の気持ちの変化に気付いている証拠だということは解っていた。
彼の隣にいるのが当たり前な自分が、彼の彼女である自分自身が彼の気持ちを一番に解ってしまう。彼の彼女である自分が敏感に感じ取ってしまうのだ。恋人というのは、恋人だからこそ、彼の小さな小さな変化でも大きくはっきり見えてしまう哀しさがある。


「彼の気持ちがわからなくなった」ではなく
「彼の気持ちがわかりすぎて嫌だ」が正しいのだ。


だからこそ、彼の変化にも私は気づかないふりをしていた。わかっているからこそ口に出さずに、目をそこへ向けずに笑い顔を彼の方に向けることだけに専念していた。
どこまでもわたしたちは曖昧なのだ。二人ともわかっていてはならないことがあることを知っている。彼にも、もちろん私にも積み重ねてきた時間があって、その時間と経験を持って、最大の武器は曖昧さにあることを学んだ。私たちは、私たちを終わらせない最良の策を常に選んできたつもりだ。なによりもそれが一番、大事。


「私たちの持続」
今、誰に二人でいる理由を聞かれても私はそう答えるだろう。
もちろん、彼も。


部屋にうず高く積みあがった雪の中で、私たちの営みは延々と続いていく。
それこそが安穏であったはずなのに。彼の中ではそうではなかったのかもしれない。
過重。そんな言葉が頭をよぎる。
溶けることのない雪。この部屋にはもうそれは収まりきることがなかったのだ。